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竜馬が行く。
司馬遼太郎の竜馬が行くを、今ころになって読んでいる。
青春の読書100選!とかに必ず入っていそうなのを、この年になって・・・が、ちと恥ずかしいのだけれど、読んでいる(今四巻目/全八巻)。
本は、昔から嫌いじゃなかったつもりで10代は乱読した。20代は・・・怠けた。30代は・・・心身ともに忙しすぎた。40代になってから、また俄然読み出した。読み出したのだけれど、やっぱり忙しかったので意図的に長編は避けた。司馬遼は好きで読んだけれど、先ず短編から読んだ。50代の前後になって、多少時間のコントロールが出来るようになって、満を持して長編にもトライし始めた。
歴史好きの僕にとっては、司馬遼の長編は大事にとっておいたお菓子のような存在で、ワクワクしながら読み始めたのだけれど・・・最初に選んだのが悪かったのかもしれない、翔ぶがごとくから始めてしまって・・・ちょっと参った。
司馬遼を称して、”小説家が途中から思索家に豹変してしまった人”と言う人がいる。当たっていると思う。
筋が追えずに、途中で哲学的思索や歴史観の披瀝に付き合わされるのが、嫌いじゃないのだけれど時々辛くなる。
その点、菜の花の沖は良かった。坂之上の雲も流れで読めた。
で、今回は、覚悟を決めて竜馬が行くに挑戦したのだけれど・・・これが、全くもって予想に反していて驚いた。
池波を呼んでいるような錯覚に襲われるくらい、しっかりエンターティメントの”小説”だ。
ストーリーと展開で、ぐんぐん引っ張られてしまう。
こんなに”小説”っぽい司馬遼は・・・嬉しい。まだ半分残っているのが嬉しいって、本好きの人ならみんな感じる想いだろう。大好きなお菓子が、まだこんなに残っている幸せ・・・・だ。
浅田次郎にやられた。
元旦早々、不覚にも浅田次郎に泣かされてしまった。
旅行中の暇つぶしにと、何気なく買った集英社文庫「天切り松 闇がたり」。三巻のうちの第一巻第一章から見事にやられてしまって、その後はもうはやられっぱなしである。
情けない話だが僕は涙もろい。だが、悲しい話、辛い話には結構耐えられる。むしろ「世の中にはもっと辛いことだってある。泣いてる場合じゃないだろう」と言う醒めた気分になってしまう。ただ(根が悪人のせいなのか?)善人の話に弱い。しかもそれが多少なりとも屈折したり汚れたりしていて、その中での努力や誠意が人に通じる瞬間に弱い。お察しのとおり、高校野球では結構泣く。金八先生なども、極力見ないようにしているのだが、たまたまサビのシーンなどが目に飛び込んで来てしまうと、前後は知らなくても物の五分で泣いてしまう。まあ、早い話浪花節オヤジの典型だ。
ところで、浅田次郎って何者だ?と、改めて思った。
中原の虹「第四巻」待ってました。
浅田次郎の「中原の虹・第四巻」が今日11月8日発売だ。待ち遠しかった。僕は以前、ついうっかり中原の虹・第一巻と第二巻を本屋で何気なく買って、一気に読み進んでしまってからこの小説が二巻で完結してい無く、しかも現在書き下ろし中の作品だ(=続きはお預け)と知って唖然とした。紙芝居の続きを待っているボンズの心境(笑)。
浅田次郎の中国ものはこれが初めてだった(=順番を間違えた)ので、第三巻が出るまでの、お預け期間中に連作のスタートに当たる「蒼穹の昴」を全巻読み終え、賛否ある副編「珍妃の井戸」も一応読んで順序を整えた。今回中原の虹第四巻を読むと、浅田氏の中国シリーズ読破になる。
正直、ズバリはまってしまった。登場するさまざまな人物の中で、特に李鴻章の描き方が好きだ。アヘン戦争後のイギリスとの交渉の中で、香港の割譲を、99年の租借に持って行く彼の外交センスに惚れてしまった。
「外交とは血を流さない戦争であり、戦争とは血を流す外交である」と言う言葉を、僕に教えてくれたのは塩野七生だが、僕は蒼穹の昴の李鴻章にその外交の何たるかを見た気がした。


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