57歳と8ヶ月の夜、55歳と?ヶ月の友人と飲んで。
「少年老い易く学成り難し」・・・とは、まるで僕の今日を見透かしての予言か?
人間って何なんだろう。千年二千年三千年前の人の方が、僕より賢かった、僕より深く人間と人生をを洞察していたって・・・一体どういうことなんだ?!と、つくづく考えさせられて頭がぐるぐるしてしまう。
言葉を持ち、文字が出来、紙が生まれ、ついにコンピュータの力で、無限の情報が時代を超えて伝えられるようになっても、人は一向に賢くならない。
「親の心子知らず」も、人間の本質を突く名言だ。
人は結局、自分で体験したことからしか学ばない。いや学んだとしても知識だけでは決して実践できない。
歴史上には、突然に偉人が現れ偉業を成すが、それはその人自信が自分の小さな頭の中で、自分の力で考え出し、自分の意思で自分を動かした結果であって、積みあがった情報のおかげではない。 と、思う。
今夜の友人は、僕の付き合いの中では数少ない大企業のエリートサラリーマン系の人だが、一貫して斜めに構えて乱暴な振る舞いを続けていながら、結局は、行く先々で凄い力を出して会社の役に立ってしまうところがなんとも面白く素敵な人物だ。既存の常識を構造ごと破壊してみたり、物事を全く逆の視点から見て新しい流れを生み出したり・・・と言うことを、苦もなく思いつき、さっさとやってしまうところが、インテリでヤクザで実にチャーミングな漢だ。
いつ辞める?いくつまで仕事する?仕事から開放される毎日は楽しいのか?苦しいのか?と言うような話を交わした余韻が残ってこのエントリ-だ。
定見なく馬齢を重ねて来るうちに、五十代も半ばを過ぎた。年を取るのは意外と楽しいことだとこの頃は感じている。
四十は不惑、五十は知命と言う。そろそろ六十の自分をイメージしておかなければいけない。えーと、六十は「耳順:耳したがう」だったっけ?
16歳の高校一年生の時に、漢文が好きになった。先生が良かったのかな? ”われ十有五にして学に志し、三十にして立つ。四十にして惑わず、五十にして天命を知る・・・”と、小気味良いリズムの読み下し文の中で、当時十有五の僕は、人生についての”何か”を感じたような気がする。
その後、学には一向に志さないまま、三十にして無謀にも立ってしまって人生をさ迷い歩いた。
四十年前のあの時、四十年後の僕が、今頃こうしてブログなんぞと言うものの中で、人生を振り返ることなど思いもしなかったのと同じように、今の僕も未だに、六十で耳従う自分がイメージできない。
三つ子の魂百までか・・・馬鹿は最後まで馬鹿なんだ。
神様は優しい。早世か長寿かは教えてくれないが、全ての人の人生にもれなく終点を用意してくれている。いつかは必ず終われるのが人生だ。終わった時点で、とにかく完成してしまうのが人生だ。
シューベルトの未完成交響曲も立派な作品なのと同じに、全ての人の人生はそれぞれの形で”完成”なのだ。
人生が完成する、その日がいつなのかは、決して教えてくれないところがまた上手い。
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