楽天的僕の日本観。
バブル、失われた十年、一瞬の高揚・・・そして今、ジャパンパッシング現象?JAPAIN現象?外国人の日本売り、不動産の再びの低迷、内需の伸び悩み、政治の停滞・・・日本の将来に悲観的な声が多い。
この間の経緯に関して言えば、僕も相当に憂いている一人だが・・・一方で僕は、かなりの楽天派でもある。
日本の存在意義(原価値)は、厳然として失われるはずがないと。
一国の経済相が、「わが国の経済は既に三流」と言うのだから、そうなのだろう・・・か? では聞くが、わが国の経済が一流だった時はあるのか?
ないと思う。 いや、さらに言えば何をもって一流と言うのか?
競争至上主義の食うか食われるか、嵌めるか嵌められるかのマネーゲームを勝ち抜いている時が一流か?
仮にそうだとしても所詮、のぼり詰めた時が凋落の始まりだとしたら、一流は御免こうむりたい。
特異な存在の二流くらいがべスポジだろう。(・・・三流はやはりちと辛い/笑)
黒船がやってきて、開国に至る維新の頃=1860年代・・・。
日本は鎖国の250余年を経て、国際「文明」オンチに陥っていたが、反面、その間に培った固有の「文化」は、世界に類を見ない域に達していた。当時の来邦外国人たちが、もれなく残している驚嘆の賛辞がある。「この国の人々の礼節の正しさと心の美しさは、(文明国である)我々の国にも勝る」と。
当然だ。文明は金で買えるが文化は買えない。文化は人々の心の中に、時間をかけて育ち根付き引き継がれてゆく。
紫式部、清少納言以来の脈々とした散文の文化。茶の湯、造園、華、踊りの耽美の文化。侘び、さび、俳句から駄洒落地口に至るまでの言葉の文化・・・揚げ連ねればきりのない「味わい」の文化がこの小さな島国に深く根ざしつつ昇華を遂げ続けていた。
農業産業商業の底力も、相当なものが有ったからこそ人口も養えた。巷の庶民までが、読み書き算盤を教養として身に付けるという意識は、当時の世界にまず例を見ない高度の文化水準だ。1800年代当時の世界の都市を比較しても、江戸と大阪は十指には必ず入る規模とレベルであったはずだ。ジパングが幻の黄金の国であった理由だ。
「文化」の下地があったから「文明開花」はスピーディーだった。維新の混沌から岩倉遣欧使節団を経て、日本海海戦でバルチック艦隊を破るまでに、僅か三十余年だ。
爾来100年と少々。
世界の標準尺度=文明軸の、表層の競争に踊らされることをやめ、独自の文化軸で思考し、自身の存在意義を自信と共に消化すれば未来は見えてくる。 いやむしろ「責任」が見えてくる。
世界から、日本の文化が消え去ることを誰が望むか? 表層の日本パッシング論など恐れるに足りない。文明軸思考の競争世界に真の勝者は生まれない。そんな無意味なレースの一時の成績に一喜一憂するのは虚しい。
世界帝国アメリカが、競争至上のパワーゲームに没頭して勝利を重ねていても、あの国から、ひとつでも旨いものが生まれたか?(多分、これからは生まれると思う。ゲームに負け始めた頃に・・・)
日本の寿司と蕎麦とてんぷらと鉄板焼きは、既に世界の美食家の必須アイテムだ。
これは、マーケティングやブランドの話にも、全くもって通じる観点だ。 無益な競争に勝つ必要は薄い。
サスティナビリティー?・・・価値の提供を存続させるチカラ。
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