幕末明治の30代は、どうして大人の顔をしているのか。
Web2.0の理屈を待つまでも無く、僕の周りの情報は既に”無限”の域に達している。
しかるに、物心ついて以来半世紀、僕の”時間”は【24h-睡眠時間≒18~16h】のままで一向に増えない。そして、僕の情報処理能力も一向に進化しない。物事を見聞きし理解するには、やはり一定以上の時間がかかる。
電話は極端に少なくなった。対照的にメールが増えている。お陰で、一日のうち数時間はメールの返事に追われているのが実情だ。そのメールには、夥しい数のファイルやURLが添付されてくる。その全てを見ていたら、僕は約束の時間にすら間に合わない。これは多少の差こそあれ、みな同じだろう。
こうなると、人は自衛的に情報の取捨選択を始める。聞き流す情報と、自ら取り込む情報だ。ここに、コミュニケーションの大変革が起こると説くのが 、かの慶応大学井上教授「オーガニック・コミュニケーション・ミックス論」の原点なのだが、今日はちょっと違うことを考えてみたくなった。
幕末~明治の英傑達は多く写真に残っている。その誰を見ても、20代で既にイッパシ!30代で完璧に大人の顔をしている。何しろ、明治新政府のお歴々は殆どみな30代なのだが、どう見ても今の僕などよりは貫禄があり、オトナの顔つきだ。
やはり、国を背負う自覚のなせる業かな~。
ずっとずっと以前のことだが、この大人ぶりに付いて、ある人が面白いことを言っていた。
「昔の人は、勉強することが少なかったんだよ」と。論語・孟子に始まる四書五経といくつかの古典を読めばほぼ人並み。蘭学や天文などの専門(≒技術)の道に進めば別だが、普通の人は15歳か20歳で「勉強」は完了だ。その後は「自分で考え、自分で判断する」時期に入る。=大人の領域に踏み込む。だから大人の顔になるんだ、それに引き換え今の僕らは学ぶべきことが多すぎるんだよと。
20歳にせよ、30歳にせよ、当時の彼らは一個の確たる大人だ。判断は人を左右し、発言には時として命がかかる。大人が大人と真剣勝負でやりあう世界が、当たり前に回っている時代だった。
引きかえってみれば、今の僕たちはどうだろう。20歳で勉強終了などといったら、笑われる?怒られる?50を過ぎた僕らですら、まだまだ勉強中といってはばからない。これは一見、謙虚に見えるが、実は相当に無責任な逃げの姿勢でもある。
とにかく、自分の意識そのものが、まだまだ勉強中の書生気分なのだから、顔つきが大人になるわけが無い。発言にしても、僕はこう思うけれど、どうかなあ~そうかなあ~と、まるで責任の所在意識が薄い。子供同士の遊びの延長で世間を渡ってしまっていると、言えなくも無い。
頑固と謙虚、どちらが良いのかは分からない。だが、大人の顔が少ない社会は、チト弱々しく思える。


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